12年間も海外に出なかったノベルゲーム:翻訳という視点から見えてくる言外の意味合い

©NITRO ORIGIN 2009

ノベルゲームはどういうものなのか

 ノベルゲームというものを知っていますか。文字通りに訳すと、「小説」ゲームだ。一見普通のゲームに見えるが、普通のゲームとは異なり、その焦点は物語にある。ゲームをプレイする代わりに、一行読んで、クリックして次の行に進む。日本で生まれたこのノベルゲームというジャンルは世界的にも人気が増してきているが、まだ海外では一般的ではない。その上、ノベルゲームは大体普通のゲームよりシナリオが長いから、沢山のノベルゲームが長い間翻訳されていないままだ。その中の一つがシナリオライター奈良原一鉄によって書かれ、ニトロプラス社によって2009年に発売された『装甲悪鬼村正』(以後『村正』)だった。日本人ファンから高く評価されている作品だが、2021年まで英語に翻訳されていなかった。

 この英語版を手掛けたのが、翻訳家である誠(本名:Phil Long)と編集者である麦(本名:Colin Crouse)だ。お二人はノベルゲームのファン翻訳のコミュニティで十年以上の翻訳経験がある。色々なノベルゲームの翻訳に投稿し、チームで翻訳したこともある。お二人は特にニトロプラス社のノベルゲームがお好きなので、これまでニトロプラス社のノベルゲームを中心に翻訳をし、『村正』の前には奈良原先生作の唯一のもう一つのノベルゲームである『刃鳴散らす』もチームで翻訳した。英語版の文章の淀みなさと爽やかさに私が感動してやまない『村正』であれば、翻訳という芸術の面白みについて、より発見があるのではと思い、翻訳する過程でどんな難しさに遭遇したかについて麦さんにお話しを伺うことにした。

 麦さんによると、お二人は発売当日に『村正』を読み、その後一緒に『村正』の内容を分析して論じていた。翻訳するずっと前に行っていたこの分析が、公式に翻訳している時に役に立ったそうだ。お二人の翻訳の目標は原版をなぞるのではなく、一個の作品として独り立ちし得る英語版を作り、かつ、自分達が『村正』から引き出した作品の意味を英語に「書き直す」ことだった。

どんな雰囲気を作るべき?印象に残る翻訳の仕方

 先ず、『村正』のような性格劇を英語に翻訳する場合は、原作者が登場人物の読者への印象をどのように意図しているかを事前によく考えなければならない。麦さんは、その人物に相応しい雰囲気を醸成することで人物像を表し、読者に印象付けることが登場人物の台詞を翻訳・編集する上で最も大事なことだと考えている。

 『村正』には考え方と性格が異なる登場人物が描かれていて、その考え方と性格は登場人物の口調を通じて表れている。だから、それぞれの人物の話し方をどう英語で表すかは殊に複雑な問題となる。麦さんによると、それが翻訳上の最大のチャレンジだったそうだ。例えば、口調が荒々しいが正義感が強い一条とギャルのような面白い茶々丸という主役級の登場人物の口調を英語にする際、やりすぎにならないようにバランスを見つけるのが特に難しかったと麦さんは教えてくれた。

 声を伝えるのが最も大切な登場人物は間違いなく主人公である港斗景明(みなとかげあき)だ。麦さんと誠さんは景明の話し方の明確なイメージがあったので、一番翻訳しにくい人物というわけではなかったが、やはり物語の中心人物である景明の台詞を一番多く推敲したそうだ。景明はいつも礼儀正しくかつ明瞭に話し、子供にも丁寧語を使う。だがそんな彼は、同時に強い罪悪感に縛られている人物で、時折彼の発言から自己嫌悪が感じられる。お二人がどういう理解の下で景明という人物を英語に翻訳したかと麦さんに聞くと、次のように教えてくれた。

 景明は博識な人で、自己評価が低いものの、生まれつき他者に対する尊敬の念を持っているので、丁寧語を使う。だが、それほどの丁寧さを英語に直訳したら皮肉に聞こえてしまうので、誠実さが伝わるように書いた。そして、『村正』は 1940年代の設定なので、少し固めの口調にしたそうだ。この翻訳のアプローチは、子供達に犯罪への関与を疑われて襲われた状況での景明の台詞にも見られる。

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「短絡的な行動だったのは確かですが、それもお歳を思えば仕方のないことです。ただ、今後は注意を求めます。自分はともかく、ほかの方に怪我をさせてはいけません」

“While it’s true that your actions were rash, such is the province of youth. That said, I would ask you to exercise more caution in the future. It would not do to injure someone other than myself.”

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 この台詞から明らかに景明の礼儀正しい性格が伝わってくる。英語版でもそれは失われていない。「今後は注意を求めます」という景明の子供達に対する依頼には「求めます/would ask you」が使われているので、読者は景明が自分は子供達に命令する立場ではないと思っているということが分かる。それに「be more careful」の代わりにもっと固い「exercise more caution」が選ばれていることにも注目したい。そして、「自分はともかく、ほかの方に怪我をさせてはいけません/It would not do to injure someone other than myself」という部分から景明は自分のことを大切にしていないということが感じ取れる。このように景明という主人公には示唆的な台詞が多くあり、英語版でもその景明という葛藤を抱えた人物像が生き生きとを伝わるように翻訳されている。

 物語における大切な言葉を翻訳する際も読者へのインパクトを考える必要がある。最も顕著な事例は『村正』における「魔剣」という言葉の翻訳だ。

 『村正』においては「魔剣」は魔法の剣という意味ではなく、ご縁によってしか悟り得ない剣術、人からは決して学べないない魔法のような剣術という意味合いで使われている。この魔剣を会得するためには、武者は内省し、自分の闘い方を自覚することが必要だ。だからこそ、景明が魔剣を会得することが正に、景明という登場人物の成長の軌跡となったのだ。

 では、どうすればこのような深い意味合いが込められた言葉を翻訳できるのであろうか。麦さんと誠さんは英語の言葉を用いた色々な翻訳を考えた末、最終的にローマ字の「ma’ken」にすることにした。なぜその翻訳を選んだかと聞くと、麦さんはその言葉に読者の「意識を向けるように誘導したかった」と述べた。つまり、英語に存在しない新しい言葉を紹介することにより、印象的にすべき言葉に読者の注意を最大限に促し、物語において重要な概念を覚えさせようとしたわけだ。

テーマを引き出し、一貫性をもたらす

 読者にどんな印象を与えたいかをよく考えた上で、誠さんと麦さんはどうすれば英語版に『村正』という作品のテーマに一貫性をもたせられるかについても熟考した。

 『村正』という作品には、それぞれある考え方に固執している人物が出てくる。例えば、一条と香奈枝(かなえ)という登場人物はそれぞれ「正義」と「復讐」という理念に執着し、だからこそそれに支配されている。だが、そのような人物を登場させたのは、ただ読者にそれぞれの人物を印象づけるためだけではない。麦さんの解釈では、原作者の奈良原先生は一人ひとりの主役級の登場人物を「正義」や「復讐」などの思想に囚われた者として描こうとしたのだ。そして、そのような人物を互いに争わせ、各々の理念の問題点を晒すことで作品のテーマを浮き彫りにしようとした。

 そのような人物が掲げる理念を際立たせるために、『村正』の英語版で、誠さんと麦さんは大文字の「Way」と「Law」という固有名詞を用いて指し示すことにした。英語版の「Way」は日本の武道の技と哲学を指す「道」という概念を表し、一方、「Law」は登場人物それぞれが執着する極端で絶対的な理念を指す。原版の「理念」「掟」「約定」「陰義」「真実」「闘い方」「理」「魂」「在り方」「道」などの言葉をそれぞれ文字通りの対訳に置き換える代わりに、俯瞰的な視点から分析して、「理念」「掟」「約定」「陰義」「真実」を「Law」と翻訳し、「闘い方」「理」「魂」「在り方」「道」などを「Way」と翻訳した。つまり、色々な言葉を大文字の「Way」と「Law」に置き換えることで一見バラバラに見える概念を結び、物語に一貫性を持たせ、各人物が執着している理念が物語上で役割を持っているということを英語版の読者に伝えようとしたわけだ。

 「村正って極端な考え方の登場人物が多い…極端な考え方っていうのはそれぞれ物語上の役割がありまして…役割の重要さをどうやって読者に理解させるかについて色々考えた末、「Way」や「Law」といった単語の方がそういうテーマが伝わりやすいと考えました」と麦さんは言う。

ここからネタバレ注意!

 最も肝心な「Law」の翻訳の実例は「善悪相殺」を「Law of Balance」とした翻訳であろう。「善悪相殺」を文字通りに英語に訳したら、「counterbalance of good and evil」のようになる。実際に会議でニトロプラス社に「counterbalance of good and evil」という直訳を提案されたそうだが、誠さんと麦さんは「Law of Balance」という訳を主張した。「Balance」はただ「counterbalance of good and evil」の省略で、その方が簡潔で印象的だから選んだわけだが、ではなぜ「Law」を入れたのであろうか。

 これについて麦さんは「『村正』の登場人物は考え方や思想に支配されていることが伝わるために、(「Law of Balance」を)押し通させてもらいました」と教えてくれた。つまり、「善悪相殺」は『村正』の英語版の「Law」というテーマに強い関連があり、そのテーマを引き立たせるような翻訳にしたかったのだ。

 物語の中で「善悪相殺」は景明にかかっている「悪しきものを一つ斬ったなら、善きものも一つ斬る」という呪いだと紹介されている。第一印象では、悪者(悪しきもの)に手をかけた殺人の罰として自分の仲間(善きもの)を殺させられることは因果応報のように見える。悪い行いに適当な報いが定められているというのは、ある意味、法(英語における小文字の「law」)による裁きを受けるのと同じであると言える。しかし、物語の後の方で、景明は「善悪相殺」の本来の意味を悟る。それは、敵を殺すということは、自分にとっての悪を殺すと同時に、敵にとっての善を両方殺すことになるので、殺しに正義はないという教えだ。この呪いは殺すということが一体どういう行為なのかを殺人鬼に忘れさせないためにかけられた。この自覚により、景明にとって、「善悪相殺」は呪いから理念になる。つまり、景明は「善悪相殺」という「呪い」には「誰を殺すかにかかわらず人を殺すことは悪だ」という意味があると悟り、その自覚と共に呪縛であったものが自分の礎(理念)に変容したというわけだ。

 前述の通り、誠さんと麦さんは「善悪相殺」の翻訳として英語の大文字を使う「Law of Balance」を譲らなかった。大文字の「Law」にすることにより、「law」が元々持つ「掟」という意味だけではなく、「理念」という意味合いも持たせたわけだ。これは「善悪相殺」という言葉の呪いから理念への変化をも含意する翻訳になっている。その上、「理念」と「掟」を結びつけた「Law」という言葉の採用は他の登場人物の「Law」にも繋がっていく。「理念」というものが人を呪いのように支配する「掟」であることを示唆する「Law」という言葉は、一条や香奈枝のような登場人物が自らの理念に支配されているということも明らかにするわけだ。そう考えると、正に「Law」という翻訳の選択は『村正』のテーマを簡潔に表し、英語版においてそのテーマに一貫性をもたらす考え抜かれた翻訳だと言える。

結末部分の翻訳:英語版『村正』の集大成

 最後に、テーマの一貫性に重きを置いた故の翻訳工夫のもう一つの実例として、『村正』の結末部分の翻訳を挙げたい。麦さんによると比較的自分達の解釈を意図的に入れた部分は『村正』の終わりの部分だった。

「物語のテーマとかが収束する部分なので…私達の『村正』というか、私達の解釈が凝縮されてました…集大成と言える部分なので、英語版の集大成として翻訳するつもりでした」

 景明は義母から受け継いだ「いかなる理由においても人を殺してはいけない」という道徳観と破壊者から世界を救わなければならないという使命感に引き裂かれている人物だ。世界を救うためには自分の道徳に反して殺人を犯さなければならず、「善悪相殺」の呪いのせいで無辜な者も殺すことになる。景明は世界を救うためだとはいえ、義母の平和が第一という教えを守れない殺人鬼である自分のことを悪と考えるほどの自己嫌悪と罪悪感に駆られていて、自分が普通に生活することを許されるような人間ではないと思っている。使命により義母の教えに反して殺人を犯しながらも、景明は殺人は絶対的な悪であり、決して正当化し得ることではないと信じている。

 だから、宿敵である雪車町(そりまち)と対決する最後のシーンで、景明は自分のことを世界を救う使命感からでなく自分の意のままに人を殺す悪魔と称し、「善悪相殺」の化身として誰にでも力を貸し、その者の敵を殺すと宣言した。義母の平和第一の教えを世に広めるために自分の意のままに人を殺す悪魔を演じることをあえて決断したのだ。敵を殺してもらう代償として自分の仲間の命が奪われれば、人々に武の恐ろしさと共に「善悪相殺」の原則も悟ってもらえるに違いない。それが景明の動機だ。

 この場面の翻訳を原版と比べた時、一つの言葉が特に目を引く。現にそれは物語の結末の場面で麦さんにとって忘れ難い台詞でもある。

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まだ終わっていない。俺の使命――違う。俺の目的はまだ、果たされていない。It’s not over. My duty― No. My dream is unfulfilled.

***

 この「目的」が指し示すのは、敵を殺してもらうことの代償に自分の味方を失うことを通じて殺人が悪であるということ(「善悪相殺」)を皆に身を以て理解してもらい、その結果、戦争のない景明にとっての理想の世界を実現することだ。誠さんと麦さんは、原版の「目的」を「dream」と訳している。英語の「dream」は「理想」という含意があり、景明にその「理想」を実現しようとする意志があることを示唆している。逆に、「使命/duty」の場合は課せられた責務であり、自分の意志にかかわらず全うしなければならない務めという意味になる。従って、「dream」は「duty」に対立する概念だと言える。「目的」を「goal」というような言葉に翻訳したら、その対立は弱まってしまう。麦さんと誠さんはこの場面で景明は自分が使命感で殺したという事実を否定しようとしていると理解した。その理解が英語版の読者にも伝わるように「目的」を「dream」と翻訳したのだ。

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「これからもだ。俺はやりたいからやる」「殺したいから殺す

“I will continue to do what I want.” “And kill for the sake of my dream.”

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 上記の台詞においても「dream」という言葉の選択により景明の強い決意が込められている。英語版では、景明の台詞は意志を表すだけではなく、「dream」という決意の根拠がはっきりと述べられている。

 麦さんになぜここで「dream」という言葉を使ったかを聞いたところ、景明は自分の行為の責任は全て自分の意志によるということを自分自身にも雪車町にもひいては読者にも納得させようとしているからだと教えてくれた。その解釈に私も同感だ。景明は自分自身に噓をついているが、「dream」という翻訳によって、読者は景明が使命感からではなく、自分の意志のままに殺したということをどれほど自分に信じ込ませたいかが痛いほど分かるようになる。

 私は、この翻訳を通じて、景明にとって「dream/理想」を持つことの大切さが伝わってくると思う。彼がもし「善悪相殺」ということを理想として受け入れなかったとしたら自分の在り方と世界における自分の居場所が分からず、きっと罪悪感に耐えられないと思う。このこともまた、「Law」という英語版のテーマに集約される。ある意味、景明も一条や香奈枝のような登場人物同様、「善悪相殺」の教えを広めるという理想につき動かされ、人道を外れてしまったと言える。このように「dream」という翻訳は、理念というものは人を縛るという、いささか悲劇的な英語版のテーマに整合する。ここに晴れて英語版が集大成を遂げることになる。

 景明の中に失われずに宿っている義母から受け継いだ理想がこの『村正』の最後の台詞に垣間見えると思う。雪車町との対決の前のシーンで、小さな女の子にどうしてみんなと仲良くして欲しいのかと聞かれた景明は、聖徳太子の五箇条の御誓文を引用し「和を以て貴しとす」と答える。そして、雪車町との会話のシーンで景明が「善悪相殺」の教えを広めると自分に誓いを立てた直後、場面が変わり、その女の子は喧嘩をしている二人の男の人に向かって「わをもってとぉとしとす」という景明の言葉を繰り返す。その言葉で長大な『村正』という物語が幕を閉じる。

 私の解釈では、「和を以て貴しとす」という言葉で終わることは義母から受け継いだ平和が第一という純粋な理想が景明の中に生き残っていることの現れだと思う。誠さんと麦さんはこの台詞も『村正』のテーマに繋げるべく、「Peace is the noblest pursuit」と翻訳している。聖徳太子の五箇条の御誓文の翻訳では、「和」は大抵「harmony」と訳されるが、麦さんは「peace」の方が『村正』のテーマを鑑みてもっと相応しいと考え、その言葉を以て『村正』の英語版の集大成を飾ったのだ。

結論:理想的な翻訳というのは?

 翻訳家を志す私は、麦さんにお話を伺うことにより何か新しい翻訳上の秘訣のようなものを得ようとしていた。正直、もしかして自分にとってコペルニクス的転換になるかもなどと淡い期待を抱いたりもしたが、お話しを伺って、向上はそういうものではないと分かった。翻訳はとても主観的で、原作に応じて工夫するしかないことなので、どの作品にも応用可能な理想的な翻訳の具体的な手順は存在しないと思う。とはいえ、麦さんへのインタビューから翻訳する上での重要な考え方を確かに受け取った。

 文学の翻訳に大切なことはやはり努力と徹底的な分析だと思った。取材の際、どんなプロセスを踏んでこの翻訳を選んだかと聞くと、よく「試行錯誤」と回答された。つまり、何か具体的なプロセスがあるというより、原作の雰囲気を掴み、原作の言外の意味を捉えた上でそれを想像力と創造力を使って対象言語に書き直すしかないということだ。

 私がもし翻訳が上手だったとして、今『村正』を翻訳したとしても、麦さんと誠さんと同じ判断はしないであろう。でも、そのような主観性が翻訳の面白みだと思う。『村正』の翻訳に誠さんと麦さんの原作へ敬愛の念が込められていることは明白だ。理想の翻訳の具体的な特色があるとしたら、多分その敬愛の念だと言えるであろう。

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